日本右翼对重庆大轰炸的认识
已有 14178 次阅读2017-3-6 12:04
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1938年から始まった重慶爆撃は当初は飛行場や軍事施設のみを攻撃していたのですが、重慶市街にも相当数の支那軍側の対空砲台があり、そのため日本軍の被害も増大する状況となったので、1940年6月頃になって作戦指導部は市街地域の徹底した爆撃を決意しました(海軍航空隊・巌谷二三男氏、陸軍航空隊独立第一八中隊・河内山譲氏の証言)。
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上記の証言以外の日本兵の証言の中には「絨毯爆撃」という言葉が用いられたりしているが、我々が東京大空襲などでイメージする絨毯爆撃とは実態は違っている。
重慶爆撃の場合、犠牲者はそれほど多くはなく、『重慶抗戦紀事』(1937-1945、中国人民政治協商会議四川省重慶市委員会文史資料研究委員会編、1985年8月刊)によると、犠牲者は、1939年から1943年の約5年間で1万1889人だ。
そのうち、1939年5月の2日間で3991人の犠牲者が出たが、この直接的な原因は火災であり、爆撃は間接的な原因だった。
東京大空襲は一晩で10万人を殺害したのだから、同じ時代に5年間で1万人という犠牲者数は、重慶爆撃が無差別爆撃ではなかった証拠となる。
1940年後半から、日本軍が、支那軍の対空砲火陣地だけではなく、蒋介石政権の軍事政治経済の中枢機関、重要資源、主要交通線等を爆撃をしたことは事実だろうが、それ以上の爆弾投下は爆弾等の物資の無駄遣いとなる。
だから、支那軍が上海で行った故意にホテルやデパートを狙った爆撃や、米軍が行った東京などの住宅地への焼夷弾による絨毯爆撃や、広島・長崎への原爆投下などと同列にするのが間違いで、それは5年間で1万人強という重慶爆撃の犠牲者の少なさが証明している。
南京戦の前にも後にも提出した日本政府の和平案を蹴って重慶に逃げ込み、その重慶の市街地から対空砲火で日本軍機を攻撃したのだから仕方がないのだ。
最初から民間人密集地を狙った支那軍による上海爆撃やアメリカ軍による原爆投下や東京大空襲とはまったく異なる。
【重慶爆撃のまとめ】
1.支那軍が対空砲台を市街地に設置していた。
2.1938年から始まり、当初は飛行場や軍事施設のみを攻撃していたが、相手の被害が少なく味方の被害が増大していった。
3.1940年後半からは、蒋介石政権の軍事政治経済の中枢機関、重要資源、主要交通線等を爆撃するようになった。(決して住民狙いではない)
4.したがって、証言には絨毯爆撃という言葉が使用されたりしているが、東京大空襲のような住宅地への焼夷弾のばら撒きとは違うので犠牲者は少なかった。
5.戦争の早期終結への願望も要因としてあっただろう。
(参考)
支那軍は、重慶市街地に防空砲などの軍事施設をおいていた。
昭和14年(1939年)5月25日の戦闘記録には次のとおり記述されている。
「この戦闘において挑戦してきた敵の4機のうち1機を撃墜したるも、市街の周辺特に江岸外人住宅付近より猛烈なる高角砲及び大型機銃の猛射を受け、わが1機もついに敵弾を受け、勇敢にも敵陣に突入して自爆した」
昭和19年(1944年)7月、ルメイ少将は第20爆撃集団指令となり、重慶を根拠地としたB29爆撃機による支那内の日本軍基地及び攻撃可能圏内にある北九州の軍需工場爆撃を指揮した。
ルメイが考えたのは、限られた軍事目標ではなく、都市の主要区域全体を対象にして焼夷弾を絨毯爆撃でばらまき、文字通り無差別に徹底的に焼き払うという作戦だった。
1944年12月18日、支那軍は、米軍のB24を主体とするシェンノートの第14航空軍と合同で、漢口に対して3時間に亘る十数回の波状攻撃で、500トンの焼夷弾を租界など市街地に投下した。
漢口は灰燼に帰し、殺害された住民は数万に上った。