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日志

东京大轰炸记录

已有 463 次阅读2017-3-6 11:48 |系统分类:转帖-科技

東京大空襲から70年ということで、先週は多くの報道を目にした。しかし、「10万人が一夜にして亡くなった」「民間人への無差別爆撃」といった悲劇が強調される一方で、あまり知られていない意外な事実もある。

 昭和17年4月18日の初空襲以来、東京区部では死者が出ているだけで56回もの空襲があった。しかし、クローズアップされるのはやはり、終戦の年である昭和20年3月10日、約10万人の死者を出した「下町大空襲」だろう。実際、後にも先にもこれだけの犠牲者を出した空襲はない。

 だが、下町大空襲は爆弾投下量などにおいて必ずしも最大規模の空襲ではなかった。それ以降にも、さらなる規模の空襲が行われていたことが、戦後のアメリカ側の資料などから明らかになっている。

 昭和20年3月10日の下町大空襲では279機のB29が来襲、1665トンの焼夷弾が現在の台東区、墨田区、江東区などを中心に投下されたという。

 だが、その約1ヶ月後の4月13日に行われた「城南大空襲」は、520機のB29で3646トンの焼夷弾が投下されるという、ほぼ倍近い規模の空襲であった。

 また、5月25日、26日の「山の手大空襲」でも、464機、3258トンという記録が残っており、この4、5月の空襲によって、東京の区部はほぼ焼け野原になった。

 にもかかわらず、これらの空襲の死者は合わせても約7300人。東京大空襲全体の犠牲者の実に9割以上は、下町大空襲に集中しているのである。

 空襲の規模に比例しない被害者の実数。これはいったいどういうことなのか。一般的には3月10日が冬型の気圧配置で強風が吹いて大火災になったことや、木造家屋の密集した下町地区、しかも川が多く避難が難しかったといった地理的な状況が被害の拡大を招いたと言われている。

 しかし、東京大空襲の記録運動の第一人者である作家・早乙女勝元氏は、『東京大空襲~昭和20年3月10日の記録~』(岩波書店)の中で、その原因として当時の警視庁の防空体制を指摘しているのだ。

〈3月10日までは、バケツリレーに火たたきなどで「備えあれば憂いなし」と息まいていたものが、その「備え」の非現実性があきらかにされ、なまじわが家を守ろうとぐずぐずしていると、かえって、そのために大量の死者を出すことになると反省したのだろう。警視庁は「防空体制」の方針をきりかえた〉

 "火たたき"とは、長い竹竿の先に縄の束を取り付けただけの道具。当時は火元をそれで叩いて火を消せば大丈夫、という何とも呑気な消火方法が指導されていた。もちろん、そんなものでは焼夷弾のナパーム剤を鎮火させることなどできない。

 そしてなにより、空襲当時の日本では防空法という法律によって市民の都市からの移動が禁止され、空襲時には消火の義務が課せられていた。そのため、3月10日は避難に出遅れた市民の多くが犠牲になり、防空壕にとどまった人はほとんどが蒸し焼きになるほどの惨状だったのだ。

〈都民には、絶対に逃げることのできない防火義務が、法律として、頭の中にたたきこまれていたのである〉

 しかし、この下町大空襲があった一週間後の3月18日、昭和天皇が被災地を巡幸。「これで東京も焦土になったね」という一言を発した。

 これがきっかけになって、警視庁が防空方針を変更。「火に地下室は禁物」「避難の時を誤るな」「なるべく風上に逃げろ」といった「まず逃げる」の方針が徹底され、その後の空襲での犠牲者の大幅減につながったのである。

 これは逆に言えば、当局の非現実的な防空体制によって犠牲者が増大したということである。そういう意味では、まさに日本の戦前の統制社会がもたらした惨事であり、空襲の犠牲者を悼んで悲劇を二度と繰り返さないという観点からも、ジャーナリズムが詳細に検証すべき問題ではないだろうか。

 しかし、大手メディアの東京大空襲の特集記事や番組の中には、こういった事実に触れたものはほとんどなかった。わずかに朝日新聞が社説で当時の市民の消火活動の義務について触れていたくらいである。

 産経新聞は社説で、〈これほど非人道的な無差別爆撃が本当に必要だったのかについて疑問は大きく、引き続き日米で検証も必要だ。「戦争終結を早めるため」というだけで正当化できるものではないだろう。戦争をめぐって勝者の視点から語られがちな歴史を多面的に見ることが欠かせない〉と、あくまでも被害者としての観点を強調している。

 たしかに、行われた空襲は民間人を巻き込んだ無差別爆撃であり、米軍の非人道的な作戦は追及されるべきものだろう。

 だが、それと同時に、自国内で何が起きていたかを徹底的に検証することも、国内のメディアとしては重要な仕事なのではないだろうか。たとえ、それが不都合な真実であったとしても、である。

 ちなみに、この空襲の作戦立案者であり司令官でもあったカーチス・ルメイ将軍は「戦後、日本の航空自衛隊の育成に協力した」との理由で、昭和39年12月に日本政府から勲一等旭日大綬章を授与された。こういった不可解な事実も検証して報じてもらいたいものである。


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